ニートは神だ!

と言えばそれに反対する人は多いでしょう。そもそも、社会的にニートは悪いものであると思われています。


ニートをdisる人は以下の様な論拠に頼っています。
・社会的に生産性が低い
・仕事もせずに自立できていない
・親など、他人に迷惑をかけている

そして、ここでdisられるニートには一定の傾向があります。それは自分の稼いでいない金で生活しているニートがdisられるということです。
例えば、親の莫大な遺産がありそれに頼って生きているようなニートはdisられます。しかし、40歳までお金を必死に稼ぎ、リタイアして稼いだお金で過ごすニートはdisられません(この場合ニートと形容されることも少ないです)。


さて、ニートが悪い存在であるとは僕は思っていません。

ニートを悪く言う主張は大抵の場合「ニートが社会の利益に貢献していないこと」や「人間は仕事をして自立すべきである」といった「常識」に基づいています。
しかし、こういった「常識」に基づいた主張というのは極めて脆いです。なぜなら「常識」が「個人の利益」より優先されるべき理由が存在しないからです。

「自分の利益」を最優先においてはいけない理由があるでしょうか。
そんな理由が存在するなら聞いてみたいものです。
法的根拠が存在しない以上、先進国において「社会の利益」の優先を強制することができません。

「仕事をして自立すべきである」という論拠も同様です。仕事をしなければいけない理由などどこにもない。


「常識」のために個人が動かねばならないとする主張に強制力はないのです。



それではなぜニートを批判する言説が多いのか。

それは、働かなくともよいニートへの嫉妬に起因するものと僕は考えています。
冒頭で述べた、disられるニートの傾向が働かずに金を得ているニートに偏っている理由もこれでわかりますね。ニートを批判する人間はニートを「怠けててもお金がもらえるズルい存在」という曖昧な印象で捉えていることが多く、それゆえにニートへの批判がある特定のニートに偏っているのです(ニートとは本来Not in Employment, Education or Trainingの略称のはずですね)。



ニートは悪い存在ではないのです。そして、そこにとどまりません。ニートは神です。

いや、まあニートの全てが神であるわけではありません。ニートの中にも神であるニートとボロ雑巾のニートがあります。
僕の定義する神のニートは「働かなくとも死ぬまで満足な生活が出来るニート」です。そしてそれ以外のニートはボロ雑巾のニートです。

神のニートが神である所以は「働く」という行為から開放されることにあります。

さていきなりですが、得られる賃金をx、働くことによる金銭以外のメリット(仕事の楽しさ、やりがいなど)をy、働くことによるデメリット(仕事による苦痛、肉体的・精神的な疲労など)の大きさをzとします。ニートはxを働かずに得られるとします。このとき収支は以下のようになります。

労働者:x + y - z
ニート:x

つまり、y - z > 0であればニートであるより労働者であるほうが得であるということになります。
さて、y - z > 0である人間はどれほどいるでしょうか。僕にはそれほど多いとは思えません。働くことによる苦痛というものは相当に大きいでしょう。
賃金を稼ぐためにしょうがなく頑張っているか、働くことが立派なことであると価値転換をはかって仕事をしている人がほとんどのはずです。

つまり、働くことに金銭以外の多大な価値を見出している人以外はy - z < 0なのです。その点において「働く」ことから開放された神のニートは圧倒的に神なのです。

そして、ボロ雑巾のニートは神ではありません。なぜなら死ぬ前に満足な生活ができなくなった時点で「働く」ことを強要されるからです。

また、働かなくとも死ぬまで満足な生活ができるがy - z > 0であると考えていて、にもかかわらず就職できずにニートになってしまうが人もいます。まあそのような人は能力不足であり神のニートになれる素養を持っていながら神にならない残念な存在といえるでしょう。


しかし神のニートというのは素晴らしい存在ですよ。ぼくもにーとになりたいっす