パロディ作品を否定するのはやめようぜ

最近、ニコニコ動画で見たある動画が大変面白かった。

その動画は名探偵コナンのアニメ映像に合わせアテレコやBGMを入れるというシンプルなものなのだが、その声芸のクオリティの高さや奇抜さなどにより非常に面白い動画となっている。筆者など、この動画を作業用BGMとして使うくらいにはまっている。


さて、今回問題にしたいのはこの動画自体のことではない。
問題なのはこのようなパロディ作品によく寄せられるある批判、つまり「元々の作品を馬鹿にしている」「作者に失礼だ」といった類の批判である。
しかし、このような原作をむやみに崩すな、という意見は的外れなものであると僕は考えている。


このような意見を述べる人がどういう思考回路をたどっているか考えてみると、自分の好きなものを壊されたことからくる意見であることがわかる。つまり、パロディ作品を見たときに、自分の「この作品はこうあるべき!」像からずれているのを発見して憤りを感じるのである。

しかし当然のことながら、すべての人が従うべき理想の作品像など存在しない。特定個人がある作品をどう楽しむかは誰にも規定できないのである(その作品の作者でさえも!)。もし特定の楽しみ方を万人が楽しむべきだと言うのであればその根拠を聞いてみたいものだ。

また、僕はパロディ作品には面白い作品が多いと考えている。
パロディ作品は元々の作品についての知識を前提としており、つまりは様々な前後関係や登場人物のキャラクターといったものが予め存在した状態で作られるものだ。これをぶち壊したりすることで原作では不可能な新しい笑いなどを生み出すのがパロディ作品であり、エンターテイメントに多様さを提供している。

せっかく今ネットのおかげでこういったパロディ作品を誰もが作り、公開し、また楽しむ環境があるのだから、パロディ作品を否定するよりも原作の多様な楽しみ方を許容すべきではないだろうか。

自分を律するにはどうしたらええんや

さて、2013年である。

年始にその年の抱負を考えるがその抱負を達成するどころか記憶に留めることすらできず年末を迎えるという愚行を20数年繰り返して来たが、性懲りも無く今年も抱負を定めてみたいと思う。
ひとまず2013年末は就活というくそめんどくさい行事が控えているということで、満足に就活を終えるためにいろいろ頑張っておこうと思う。ひとまず英語力、日本にどのような企業があってどういう関係性を持っているかなどについての把握、あとは短時間で相手の発言の意図を汲み取り論理的な回答をする能力などといったところだろうか。

まず英語力に関して。
「TOEIC900オーバー」
「ビジネス会話レベルの会話力」
を目標にしようと思う。そのために
・英文解釈考をやる
・レアジョブ英会話をはじめる
・DUO→もう一個単語集制覇
ってことにしよう。ただ英文解釈考は高尚すぎる気がするし何より挫折率が半端なさそうなのでしばらくやってみて変えるかもしれない。

次に日本の業界の把握について。これについては受験と同じように進めれば問題ないように思う。まず広く浅く全体を把握し、その後細部についてより深く知っていけば問題ないだろう。この後新しいニュースを自分の知る業界についての知識と関連づけて考えられるようになれば目的を達成したと言っていいと思う。
具体的に書くと
・業界地図をパラ見
・特定業界について掘り下げている本を読みこむ
・その後は日経新聞で自分の知識に基づいてニュースを読む
といったところだろうか。

最後にまあ物事をどう考えるかということであるが、やはり考えたことは文章にしないと明確にならない。脳みその中で考えているつもりでいても、文章にしてみると曖昧な部分があるのはよくあることだ。しかもその文章は批判にさらされなければやはり自己満足に終わってしまうだろう。そういうわけでブログを書き続けるのがよいと考えている。しかしこれは去年の今頃も考えていたことであり、残念なことに去年はブログを常に書き続けていたと言える状況には全くない。そういうわけで対策を取らねばならない。
書けられない理由はやはり書くネタの選定段階にある。去年の今頃は「ネタが思いついたら書こう」レベルの弱い動機でしか書いていなかった。
しかし今現在進行形で感じているが、やはりまとまった文章を書くというのはかなり体力を使う。ネットサーフィンと同じというわけにはいかないのだ。
そういうわけでブログのネタ選定の方法と書くタイミングを明確化しようと思う。まあ受験勉強と似たようなものか。
ネタ選定は人が集まりそうなもの、話題性の高いものを選ぼうと思う(有名な人の炎上ネタとか)。今のところ2chまとめサイトなどで炎上ネタについて1日に1回はしっかりと考える+本を読んだら必ず読書感想文を書くという過程でネタ集めを行おうと思っている。タイミングは2chまとめを見てリフレッシュした後だ。まあこれでも続けられないようならまた対策を考えようと思う。


しかし、今年こそは怠惰から脱却したい。毎回計画を立てるときはモチベーションが高いのだが実践段階になると途端にうんこになる。自分の行動力のなさ、飽きっぽさは日本でも十指に入るのではなかろうかと常々思う。2013年は今までと違う年になることを期待したい。

ああ、あと自分の読んでいる本についてもここに書いていこうと思う。本も読むだけではなく少なくとも軽い感想か要約を、出来ればそれなりの長さの感想を書こうと思う。そういうわけで最近読んだのは次の2冊。

外資系金融の終わり―年収5000万円トレーダーの悩ましき日々

外資系金融の終わり―年収5000万円トレーダーの悩ましき日々

今は次の3冊をだらだら見ています。

弱い日本の強い円 日経プレミアシリーズ

弱い日本の強い円 日経プレミアシリーズ

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

善悪の彼岸 (岩波文庫)

善悪の彼岸 (岩波文庫)

しかし卒論めんどくさくてうんこもれそうです。

そういうわけで

死ぬほど久しぶりにブログ更新する。

しかしまあこのブログを放置して久しい。前が8月後半なのでそろそろ4ヶ月になろうかというこの体たらく。
前の更新はクソ暑い夏だったのに今はアホみたいに寒い冬である。



しかしまあなぜブログを放置していたかというと、私生活が忙しかったという言い訳も出来なくもないのだがやはりブログを書くことのハードルが高かったのだ。記事書くからには色々考えて構成してやれどーだのこーだの。
これからはもっとテケトーなことも書きつつたまに頑張るというスタイルで書こうと思う。この記事も5分で書いた。




とりあえず就活まであと1年である。それまでにある程度の英語能力とプログラムと文書作成能力強化とあわよくばマーケティングファイナンスをそこそこやっておこうと思う。

しかしその目的を立てたにもかかわらず全く努力をおこなっていない。現代思想がおもしろすぎるのだ。あといろんな本が面白い。

今読んでる本
善悪の彼岸
・銃・病原菌・鉄
・わかりたいあなたのための現代思想・入門

経済勉強するよりもはるかに面白い。一時的にのめりこみそうになっているだけだと自分に言い聞かせている最中である。
ひとまずニーチェフーコードゥルーズを読もうと思っているが読みきれるかどうかは定かではない。



そういえばこの前インターネット上にてTOEICの結果が閲覧できるようになった。スコアは3年前受けた時と全く同じの865点であった。リスニングが20点下がりリーディングは20点上がっていた。

3年間英語の勉強をひたすらサボっていたにしてはそこまで衰えていなかったといってもいいのではないだろうか。

ひとまず900にのせることを目標にしようと思う。

そういうわけで受験時代にひたすらお世話になった伊藤和夫の参考書をひっぱりだし、読んでいる。

ニートは神だ!

と言えばそれに反対する人は多いでしょう。そもそも、社会的にニートは悪いものであると思われています。


ニートをdisる人は以下の様な論拠に頼っています。
・社会的に生産性が低い
・仕事もせずに自立できていない
・親など、他人に迷惑をかけている

そして、ここでdisられるニートには一定の傾向があります。それは自分の稼いでいない金で生活しているニートがdisられるということです。
例えば、親の莫大な遺産がありそれに頼って生きているようなニートはdisられます。しかし、40歳までお金を必死に稼ぎ、リタイアして稼いだお金で過ごすニートはdisられません(この場合ニートと形容されることも少ないです)。


さて、ニートが悪い存在であるとは僕は思っていません。

ニートを悪く言う主張は大抵の場合「ニートが社会の利益に貢献していないこと」や「人間は仕事をして自立すべきである」といった「常識」に基づいています。
しかし、こういった「常識」に基づいた主張というのは極めて脆いです。なぜなら「常識」が「個人の利益」より優先されるべき理由が存在しないからです。

「自分の利益」を最優先においてはいけない理由があるでしょうか。
そんな理由が存在するなら聞いてみたいものです。
法的根拠が存在しない以上、先進国において「社会の利益」の優先を強制することができません。

「仕事をして自立すべきである」という論拠も同様です。仕事をしなければいけない理由などどこにもない。


「常識」のために個人が動かねばならないとする主張に強制力はないのです。



それではなぜニートを批判する言説が多いのか。

それは、働かなくともよいニートへの嫉妬に起因するものと僕は考えています。
冒頭で述べた、disられるニートの傾向が働かずに金を得ているニートに偏っている理由もこれでわかりますね。ニートを批判する人間はニートを「怠けててもお金がもらえるズルい存在」という曖昧な印象で捉えていることが多く、それゆえにニートへの批判がある特定のニートに偏っているのです(ニートとは本来Not in Employment, Education or Trainingの略称のはずですね)。



ニートは悪い存在ではないのです。そして、そこにとどまりません。ニートは神です。

いや、まあニートの全てが神であるわけではありません。ニートの中にも神であるニートとボロ雑巾のニートがあります。
僕の定義する神のニートは「働かなくとも死ぬまで満足な生活が出来るニート」です。そしてそれ以外のニートはボロ雑巾のニートです。

神のニートが神である所以は「働く」という行為から開放されることにあります。

さていきなりですが、得られる賃金をx、働くことによる金銭以外のメリット(仕事の楽しさ、やりがいなど)をy、働くことによるデメリット(仕事による苦痛、肉体的・精神的な疲労など)の大きさをzとします。ニートはxを働かずに得られるとします。このとき収支は以下のようになります。

労働者:x + y - z
ニート:x

つまり、y - z > 0であればニートであるより労働者であるほうが得であるということになります。
さて、y - z > 0である人間はどれほどいるでしょうか。僕にはそれほど多いとは思えません。働くことによる苦痛というものは相当に大きいでしょう。
賃金を稼ぐためにしょうがなく頑張っているか、働くことが立派なことであると価値転換をはかって仕事をしている人がほとんどのはずです。

つまり、働くことに金銭以外の多大な価値を見出している人以外はy - z < 0なのです。その点において「働く」ことから開放された神のニートは圧倒的に神なのです。

そして、ボロ雑巾のニートは神ではありません。なぜなら死ぬ前に満足な生活ができなくなった時点で「働く」ことを強要されるからです。

また、働かなくとも死ぬまで満足な生活ができるがy - z > 0であると考えていて、にもかかわらず就職できずにニートになってしまうが人もいます。まあそのような人は能力不足であり神のニートになれる素養を持っていながら神にならない残念な存在といえるでしょう。


しかし神のニートというのは素晴らしい存在ですよ。ぼくもにーとになりたいっす

大津いじめ事件での加害者たたきに見受けられる醜さ

大津のいじめ事件ってのでけっこう盛り上がってる(いた?)みたいですね。
個人的にこういう話題に一切興味が無いんですが、さすがにいろんな人がこの話をするしネットでも燃え盛ってるようなのでとりあえず事実関係はさらっと見てみました。

いじめを受けた子が悲惨ないじめの末自殺し、それに対する加害者や担任、学校の対応がいろいろとまずかったようでネット上で炎上。加害者、担任などの個人情報がガンガンさらされる、という流れのようですね。

個人情報をさらすということに対してやりすぎだ!という声もでているようですが、これに関しては僕はそこまで批判しようという気はありません。
いじめっ子が社会的いじめに合うことでカタルシスを感じる人がいることは理解できますし、いわゆる「悪人」が更生する可能性は低いことからもはや社会的に抹殺しようとする考えもわからないではありません(一度罪を犯した人たちの再犯率の圧倒的な高さを見ても、いわゆる「悪人」の思考の流れや環境などが社会的に負の影響を与えるような方向に固定されてしまっている可能性は高いでしょう)。
ただし、事実関係を確認せずにあることないことを垂れ流す人たちは批判されるべきです。まあこれに関しては誰もが思うことでしょう。実際全く間違った情報も色々と出回っていたようで、これに関しては徹底的に断罪されるべきです。



さて、このいじめに関して僕が感じたのは、いじめを叩くほとんどの人に見受けられるナルシシズムがとても醜いということです。

加害者を叩くのもいじめなんじゃないの?という問いに対して彼らは「俺らは処罰されない悪人を裁いてるんだ」「いじめの抑止力になってるんだ」といった風に答えます。
まあここまでひどいのは少ないとしても、叩くことは正しいことだと考えている人は多数いるでしょう。

先ほど言いましたが僕は叩き自体についてはそこまで批判しようとは思いません。僕が醜いと感じているのは、叩く人のほとんどは自分の怒りを叩くことで解消しようとしているだけなのにそれを「いじめの抑止力」「悪人裁き」といった大義名分で覆い隠している、という事実です。


彼らは本当にいじめの抑止力になろうとしているんでしょうか?裁かれない悪人を裁こうとしているのでしょうか?

そんなことは絶対にありません。
もしそうならなぜ大津の事件でしか彼らは活動しないのでしょうか。
いじめに関する各種統計や過去の事例について調べたりしているでしょうか。
過去に数多く存在したであろう類似の事件について同じように調査をしているでしょうか。
いじめが発生する構造的な問題点などについて真剣に考えているのでしょうか。

結局彼らは自分が感じた不快さを解消するために叩いているだけなのです。
そしてさらに驚くべきことは、自分が大義名分のために動いていると信じきっている人が少なからず存在することです。

まあただ単にこうやっていつものように事件を消費してるってだけですけどね。こんな感じで次にデカイ事件が起きると大津いじめ事件は忘れ去られていくことでしょう。へいわっすわー。

「恵まれない人々」という意味の分からない概念

「アフリカの恵まれない子供たち」を代表とする「恵まれない人々」というような概念・フレーズは知的レベルの低い者たちによって多用される。

「食べ物を残すな!食べたくても食べられない人もいるんだぞ!」といった発言は腹がいっぱいになった「食べたくても食べられない人たち」が食事を残すであろう事実とは独立に乱用される。そしてその後一連のクソくだらない説教が続くのだ。

全くこのような発言をする愚か者どもに申し上げたい。それがどうした?と。



正直「恵まれない人々」などどうでもいい。
このようなことを言うとすぐ青筋プルプル立てて怒り出す人がいる。「命は何よりも大事だ」「自分さえよければいいのか」と。

しかしこのような発言をする人が本当に「恵まれない人々」について真剣に考えていたりその状況を改善しようとしていたりするかどうかは甚だ疑わしい。

真剣に考えれば、いわゆる先進国に住む人は生きているだけでものすごい数のアフリカ人を殺していることがわかる。我々がほんの数百円、数千円を節約し、その金を貧困国の人々が使えれば何人もの人の命が救えるのだ。要は我々の贅沢と恵まれない人々の命はトレード・オフの関係にある。つまり本当に恵まれない人々を救いたいのであれば自分の全財産を寄付するなり自分が生きるのに必要最低限の金だけ残し放出すべきなのだ。

「命が何よりも大事」だと考える人が趣味や道楽に金を使うのはいかなる理由からか。そのような思想を持つ人は「多数の命」と「自分の快楽」で後者を選ぶ合理的な理由を説明できるのだろうか。


結局は恵まれない人々を気にかけている自分に酔っているナルシストなのだ。あるいは道徳に関する諸概念を疑えない愚か者であるのかもしれない。



こういうことを言うとまだ「やらない偽善よりやる偽善」などということを言ってくる。自分の道徳心をすこしでも満たしたいのだろう。

このような言説は「絶対的な善」の存在を前提になされている。恵まれない人々を救うことは「善」であり、そうすることは偉いことだと主張しているのだ。

俺は優しいので教えてあげよう。「絶対的な善」などは存在しない。「善」とは相対的なもので、個々人によって何が善いものかという基準は異なるのだ。

例えば自爆テロを行う宗教団体は我々にとって「悪」であると断じられる。しかしその宗教団体側にとってはそれは「悪」だろうか。自爆テロが例えば教義にそった行為だとすればその宗教団体にとっては自爆テロは「善」ではないか。我々の「善」の基準が正しくその宗教団体の「善」が正しくないとする根拠は存在するか?そんなものはありえない。

つまり、恵まれない人々を救うことはすべての人にとっての「善」ではないのだ。なのに恵まれない人々を救うことが「善」であると一方的に主張し、それを強要するのは全くやめていただきたい。そのような主張は真冬の八甲田山中に捨てられるべきである。


そういうわけで「恵まれない人々」という陳腐な概念をあっさり受け流し健康的な生活を応援するポチョムキンです。うへへへ。

宝くじ買うのは期待値的に不利だと!?そんなことはない!!!

「宝くじは期待値的に不利だから買わない」などと宣う輩がいるが、そのような人間は息をすべきではない。

先日、サマージャンボが発売された。なんと1等が4億円という大盤振る舞いである(賞金の合計が大盤振る舞いであるかについては計算するのがめんどくさいのでわからん)。
4億円といえば日本人の生涯平均年収をはるかに上回る圧倒的な金額であり、税金でいくら引かれるのかは知らんが派手すぎる暮らしをしなければ仕事をしなくても一生生きていられることは確実である。

さて、宝くじは期待値的に不利だから買わないという愚か者どもよ。君たちは金銭と効用が完全に線形の関係であると思っているのかね。道端で1円拾うより5円拾うのとで、幸福度は5倍も変わるか?別にそんな変わらないでしょー。

確かに宝くじは「金銭的には」期待値的に不利だ。
しかし「得られる効用」を考えれば必ずしも不利にはならない。例えば、極めて低い確率ではあるが1等が当たったとすれば一生の労働から開放される。得られる効用は超絶ウルトラワンダフル高い。
また、宝くじで得られるメリットは金銭だけではない。例えば、当選番号確認の際の楽しみがある。また、「宝くじ買ったんだよーHAHAHA」「まじでー当たったらしゃぶしゃぶおごってくれーHAHAHA」「まかせろーバリバリ」「HAHAHA」みたいな会話も楽しめる。さらにいうと、俺は極めて短い間ではあるが「宝くじを買うけど300円も当たったこと無いキャラ」を確立していたことさえある。

つまり宝くじを買うことで得られる効用は結構いろんな所から得られるのだ。

っていうか当たったときに得られるメリットに比べて、デメリットってほぼ無視できる場合が多い。
宝くじを数枚買うことなど普通に生活をしている者にとっては無視できる支出にすぎない。それで大金を手にする可能性を極めて低いとはいえ持てるのだから買わないという選択肢は俺には思いつかない。


まとめると
・宝くじで得られる効用は金銭的なものだけではない
・大金が当たるというメリットに比べ、宝くじが外れるデメリットが(少数買う場合には)少なすぎる
ので、宝くじを買うことは効用の期待値的に有利になる場合が多い。そーいうことだ。


ちなみに俺は宝くじは毎回3枚(900円分)買うが、一度として当たったことはない。300円さえもだ。どういうことだよ!死ね!死ね!