「恵まれない人々」という意味の分からない概念

「アフリカの恵まれない子供たち」を代表とする「恵まれない人々」というような概念・フレーズは知的レベルの低い者たちによって多用される。

「食べ物を残すな!食べたくても食べられない人もいるんだぞ!」といった発言は腹がいっぱいになった「食べたくても食べられない人たち」が食事を残すであろう事実とは独立に乱用される。そしてその後一連のクソくだらない説教が続くのだ。

全くこのような発言をする愚か者どもに申し上げたい。それがどうした?と。



正直「恵まれない人々」などどうでもいい。
このようなことを言うとすぐ青筋プルプル立てて怒り出す人がいる。「命は何よりも大事だ」「自分さえよければいいのか」と。

しかしこのような発言をする人が本当に「恵まれない人々」について真剣に考えていたりその状況を改善しようとしていたりするかどうかは甚だ疑わしい。

真剣に考えれば、いわゆる先進国に住む人は生きているだけでものすごい数のアフリカ人を殺していることがわかる。我々がほんの数百円、数千円を節約し、その金を貧困国の人々が使えれば何人もの人の命が救えるのだ。要は我々の贅沢と恵まれない人々の命はトレード・オフの関係にある。つまり本当に恵まれない人々を救いたいのであれば自分の全財産を寄付するなり自分が生きるのに必要最低限の金だけ残し放出すべきなのだ。

「命が何よりも大事」だと考える人が趣味や道楽に金を使うのはいかなる理由からか。そのような思想を持つ人は「多数の命」と「自分の快楽」で後者を選ぶ合理的な理由を説明できるのだろうか。


結局は恵まれない人々を気にかけている自分に酔っているナルシストなのだ。あるいは道徳に関する諸概念を疑えない愚か者であるのかもしれない。



こういうことを言うとまだ「やらない偽善よりやる偽善」などということを言ってくる。自分の道徳心をすこしでも満たしたいのだろう。

このような言説は「絶対的な善」の存在を前提になされている。恵まれない人々を救うことは「善」であり、そうすることは偉いことだと主張しているのだ。

俺は優しいので教えてあげよう。「絶対的な善」などは存在しない。「善」とは相対的なもので、個々人によって何が善いものかという基準は異なるのだ。

例えば自爆テロを行う宗教団体は我々にとって「悪」であると断じられる。しかしその宗教団体側にとってはそれは「悪」だろうか。自爆テロが例えば教義にそった行為だとすればその宗教団体にとっては自爆テロは「善」ではないか。我々の「善」の基準が正しくその宗教団体の「善」が正しくないとする根拠は存在するか?そんなものはありえない。

つまり、恵まれない人々を救うことはすべての人にとっての「善」ではないのだ。なのに恵まれない人々を救うことが「善」であると一方的に主張し、それを強要するのは全くやめていただきたい。そのような主張は真冬の八甲田山中に捨てられるべきである。


そういうわけで「恵まれない人々」という陳腐な概念をあっさり受け流し健康的な生活を応援するポチョムキンです。うへへへ。